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笑える話、考えちゃう話、頭に来ちゃう話、ズキーンと心が痛む話
そして、誰かに、密かに伝えたいことを書いてみました。


16、抗癌剤はどこから効くか 17、再発の恐怖 18、新春の慶びに向けて
19、我が子のこと 20、真面に… 21、Shinが発病した理由
22、折鶴 23、家族の承諾 24、骨髄移植と臍帯血移植
25、移植から一年経ちました 26、ミニ移植の適応年齢

26、ミニ移植の適応年齢

2月29日のフォーラムで国立がんセンター医師、森慎一郎先生から「ミニ移植」についての基調講演を聞いた。ミニ移植と聞くと患者に優しい移植というイメージがあったけれど、施行され始めて少し時間が経過した今、決して優しい移植法ではないのだと知った。通常の移植(CST)とミニ移植(RIST)は前処置の方法が違い、CSTは大量の抗癌剤+TBI(全身放射線照射)を行うので体力のある若年者に限られるが、RISTは抗癌剤の量が少なく(TBIはケースバイケース)移植をするので高齢者や臓器障害者にも適用される。前処置が軽いためRISTは白血球の減少期間が短いので感染のリスクが少ない。移植直後の感染症、合併症にはなりにくいので移植関連死はCSTより少ない。つまり移植日からDay800くらいまではRISTのほうが生存率が高いのだが、その後ガタッと生存率がCSTよりも低くなるのだ!そのデータ(パワポ・スライド)をみて寒気を感じた。
ミニ移植(RIST)は急性GVHDの症状が後期に発症すること、慢性GVHDが高頻度で発症することが明確になってきており、RISTの患者さんは入院中ではなく、退院後の外来でのGVHD治療が主な治療になり、「自己管理」するための知識が必要なので日々の努力と学習や他の患者さんとのコミュニケーションが大切だと感じた。特にHLA一致兄弟ドナー以外のRISTは治療関連死が高率であることも明らかになってきたとあり、移植するドナーの選択もCSTとは同じ基準で決められないのだと思った。
高齢者に適応になってからRISTした最高年齢は79歳と聞いて非常に驚いた。通常のCSTは50歳くらいが上限だろうから、それと比べるとスゴイ!
しかし、ここでまた別な問題が生じてくると思う。Better than nothing?「0よりはまし」の移植を望む患者さんが増えるのではないかということだ。
私だって、そう考えた。Shinが発病した時、とにかく命を救いたかった。死なせるわけにはいかない!そういう気持ちでいっぱいだった。どんな身体になろうとも生きていてほしいと願った。

高齢な患者、臓器障害があり体力がない患者、その患者さんたちが「0よりはまし」と移植を望む場合、患者さん本人の真意なのか、家族の強い要望なのか、患者と家族がどこまで本当に気持ちを伝え合う事が出来る関係なのか?が大きな問題ではないだろうか?と感じている。
最後まで病気と闘い抜くことと、残された時間を大切に穏やかに過ごし終焉を迎えることと、どちらが正しいかなんて誰にも決められない。一見、闘いぬくことのほうが美徳のように言われがちだが決してそんなことは無いのだと思う。大事なのは患者も家族も偽り無い意をを相手に伝えられる関係を持つことだと思う。
でも、往々にして医師も家族も頑張ってくれているんだから、患者本人が頑張らなくてはならないと思い込んでしまうように思える。いったい「頑張る」ってどういうことなんだろう・・・?「闘う」ってどういうことなんだろう?

参考サイト
ミニ移植に関する情報(ミニ移植・スライドとQ&A)
http://www.geocities.jp/npo90210/


25、移植から一年経ちました

2003年2月19日、Shinは生まれ変わりました。確かに血液型は“神経質なA型”から私由来の“おおらかなO型”へ変わりました(笑)。そして、男女を決める染色体は私と同様の女性へと美しい変貌を遂げました(爆)。ミスマッチ移植だったため(?)生着にわりと時間がかかったものの、臓器への大きなダメージもGVHDもさほど無くここまでこれたことに心から嬉しく喜んでいます。GVHDがあまり無かった…ということはGVL効果も期待できないのか?と心配したこともありました。サイトメガロ網膜炎になった時などは眼科とコミュニケーションがどうしたら円滑に行われるのだろうかと、その時々に頭を抱えた事も少なくはありません。その度に素晴らしい助っ人が現れ、大勢の皆さんがShinをサポートしてくれました。これが何より有難かったです。今朝、これまでお世話になった方々へメールでお礼と報告をしました。主治医の先生からは『移植後わずか1年でこんなに元気に日本中を飛び回っている姿はとても想像出来ませんでした』と返信を頂きました。本当にそうです。去年の移植の日はこうして元気に一年目を迎えられるなどと思いもしませんでした。もし再発したら間髪入れずにDLI(ドナーリンパ球輸注)をすると言われていたので、いつでも白血球を採取するために飛んで行けるよう、検査の翌日(結果が出る水曜日)は用事を入れることなく待機して毎回検査結果が携帯のメールに届くのを待っていました。時が経てば経つほど再発の確立は低くなっていきます。やっとここまで来れました…、本当に皆さんのおかげです。ありがとうございました。
これからは「目指せ!完治」です。 Happy 2nd Birth Day to Shin♪


24、骨髄移植と臍帯血移植(2003年)

2003年に骨髄バンクを経由した骨髄移植症例数は730例(海外への提供26例含む)、臍帯血ネットワークを経由した臍帯血移植症例数は570例だったそうです。年間で1300人への患者さんへ非血縁の造血幹細胞移植が行われたことになります。前年の2002年は骨髄移植が758例、臍帯血移植が269例(2001年は200例)だったので、すごい勢いで臍帯血移植が増えた事がわかります。臍帯血移植症例数は570例ですが、実際に用いられたのは577本で、その差の7本はカクテル移植(複数臍帯血同時移植)だそうです。
骨髄移植55%、臍帯血移植45%という結果をどう踏まえるか…というのは議論があるところでしょう。症例数の多い少ないではなく、問題は移植成績(生存率)だと思うので。
臍帯血移植が多くなった理由はコーディネートの必要がないことや患者の仲介負担金が不要なことが第一に挙げられると思いますが、懸念されている細胞数の確保(生着の問題)は実際のところどうなのでしょうか?知りたいのは私だけかしら?いや、みんな知りたいですよね?
臍帯血移植と骨髄移植が患者に及ぼす治療上の問題や成績を含めて大差ないのであれば、この先臍帯血移植は益々増え、危険を伴うドナーは要らなくなるように思えますが果たしてそうなるのでしょうか?

諸外国の臍帯血移植の成績と日本の成績を比べるとどうなのか、もしも、日本と同様の成績ならば欧米でも骨髄移植を追い抜く勢いで臍帯血移植が行われていてもおかしくないのに、そうではないのはなぜなのでしょうか?こうした疑問を持っているのは私だけかなぁ。。。と思う今日この頃でした。

血縁間の移植は全国でどのくらい行われているのでしょうか?
オールマッチ、ミスマッチ、移植成績…どうなんだろうか、非常に興味がありますので、ご存知な方がいたら是非教えて下さい!


23、家族の承諾

私が弟のドナーになると決まった時に、「周囲の反対が無かったか?」と質問されることが結構あります。なぜ、そんなことを聞かれるのか…きっと血縁の患者が発病し自分のHLAが適合したけれど、配偶者(家族)や周囲から反対される方々が私の推測よりもはるかに多いのだろうと思いました。
「どうやって嫁ぎ先の反対を説得したのですか?」と私の周囲で反対をした人が確実に存在したかような質問をされた方もいました(驚)。確かにいましたよ「Milkyの身体のことを考えると臍帯血移植のほうが良いんじゃないか?」と言ってくれる人も。(ありがとね☆ミ)

でも、私の答えは・・・『誰へも相談しなかったし、誰の承諾も取りませんでした!』です。
私は成人した一人の人間として大切なのは自分の判断だけでした。(だから自分で怖いとか嫌だと思ったらしなかったと思う)これを読む方の中には「じゃ、もしもの事があったら子供や家族はどうなるの?」と言う人もいるかもしれませんね。
私は思うのですが「生きる」ということ自体に相等のリスクがあると思うのですよ。人々は毎日危険にさらされています。世の中では交通事故が多発しています。でも18歳になると車の免許が取得できますよね。自分が悪くなくても事故に遭う(貰い事故って言うのかな?)ことも多いのが現実ではありませんか?
じゃ、免許を持つ皆さんは、運転する前に「もしかしたら、事故で死んでしまうかもしれませんが買い物に行って来てもイイでしょうか?」って家族に毎日聞くのでしょうか?
楽しい旅行を楽しみにしている人に「もしかしたら飛行機が落ちるかもしれないから行くな!」と強制できるのでしょうか?
「車両事故があるかも知れない・・・、大きな隕石が落ちてくるかも知れない…」といって会社を辞めますか?(笑) 免許を持っている人は自己判断で車に乗るのではないのですか?ドナーになって事故が起きる可能性は交通事故の数などとは比べ物にならないほど低い確率です。
私が「弟のドナーになっても良いか?」と周囲にお伺いを立てるならば、スーパーへ車で買い物に行くにも「事故に遭うかもしれないけど行っても良いか?」と承諾を取らなくてはならなくなります(笑)。私にとってドナーになるということは、そういうことだと思ったのです。自分の判断だけが必要だと。
ドナーになるためには、なぜ事故に遭うかもしれない車に乗ることには何も言わない家族の承諾を貰わなくてはならないのか私には分かりません。
生きることにはリスクが必ず伴います。極論ですが、もしも、もしも、不運にもドナーになって例え死んでしまったとしても、交通事故の巻き添えになって死ぬより良いじゃないですか?意味のあることでは無いでしょうか?そうは思うのは私だけでしょうか?そう考えると一日一日がとて大切だと思えます。人の一生には限りがあります。大切な人のためには何も躊躇することはないでしょう。その大切な人は貴方へも躊躇することなく同じように与えてくれるでしょうから。そう思える私は素直に幸せだと思います。そして、子供たちの面倒を見てくださった舅と姑には心から感謝しています。


22、折鶴

Shinが無菌室へ入っている間の面会時間は午後3時〜4時、6時〜7時の2時間だけでした。私は通称パントリーと呼ばれる場所で4時から6時までの間、本を読んだり他の患者さん家族とおしゃべりしたりして過ごしていました。Shinが無菌室へ入って間もない頃、パントリーを清掃をしているおじさんから手招きされたのです。「えっ、ワタシ?」と自分の顔を人差し指でさし、おじさんの顔を見ると頷きます。「なんだろう?」正直言って私はちょっと不安な感じがしました。「どこか汚してしまったっけ?もしかして叱られるのかな〜?」と思いながらおじさんのほうへ近づいていきました。すると、その背の高いおじさんは「手を出して」と言ったのです。私は咄嗟に「落し物をしたんだ、私!」と思いながら手のひらを広げたら、なんと私の手のひらに小さな二羽の折鶴をそーっとおいてくれました。新聞広告で出来た二羽の折鶴は羽の先端が繋がっていました。キレイに二羽並んでいる折鶴は折るのが大変だったのではないかと思いながら手の中の折鶴を眺めている私へ、おじさんは「お大事にね…」と、とっても小さな声で言い立ち去りました。このおじさんは清掃と言う仕事をしながら、私のように無菌室へ面会するために時間をつぶしている家族をずっと見てきたのでしょう、そしておじさんは自分の祈りを込めた小さな折鶴を折って下さったのだと思いました。
私は思い掛けない出来事に、ちゃんとお礼を言うのを忘れたことに気が付いたのは、少し時間が経ってからでした。すぐに、あのおじさんを探しましたがその日はもう見つけることは出来ませんでした。
その日、2回目の面会に行った私は、すぐにShinへこの話をしました。そしてShinから見える場所にその折鶴をそぉっと置きました。それから私は毎日折鶴と一緒に面会をしたのです。「おじさんにお礼を言わなければ…」と思いながら。
それから数日過ぎた日、私はそのおじさんをエレベータ横の廊下で見つけました。「ありがとうございました!」と私が声を掛けると「えっ?」と不思議そうな顔をされたので、「折鶴、繋がった折鶴をくださったのはおじさんですよね?」と言うと、やっと思い出したように「ああ・・・」と目を細くされました。もう一度丁寧にお辞儀をしておじさんから離れて歩き出したら「お大事ね…」とまた小さな声で言ってくれました。心の中で感謝の気持ちがどんどん膨らんだ私は「ありがとうございます!」と小さく返しましたが、嬉しくて、嬉しくて、スキップをしたくなるような気持ちでした。その折鶴は無菌室で闘病中のShinを廊下の窓からずーっと見守ってくれました。私達が入れない面会時間外も…。そして無菌室から脱出(笑)する日、その折鶴は次に移植する辰ちゃんへ渡す事に決めました。ラッキーな折鶴だと思ったからです。そして、辰ちゃんが移植をクリアした後は次の患者さんへ引き継がれたそうです。〜Y子ちゃん(辰ちゃんの奥様)談〜

そして退院間近なある日、パントリーでまたまた私手招きをされました。あのおじさんです!私にまた折鶴を下さったのです。おじさんは、もうあの日のことを忘れていらしたようでした。あの時と同じように「お大事にね…」と小さな声で。

暖かな人の気持ちに触れたとき、どんなに心が豊かになるか・・・私はあのおじさんから教えて頂きました。
心からありがとうございました。


21、Shinが発病した理由

Shinの入院中、私と母が買い物をしていたとき、小学校4年生の時(30年も昔)に私の担任だった博子先生と、1年前に娘HANAの担任だった真理子先生とバッタリお目に掛かりました。二人の先生方は私と母に驚かれ「どうなさったのですか?」と声を掛けて下さいました。(Shinの発病半年前に私が手術をする時、私の子供達は半年間だけ実家の近くの小学校へ転校していた経緯があり、その時に偶然、私が幼い時お世話になった博子先生も同じ小学校へ務めておられたのでした)
声を掛けてくださった先生へ、母は「先生、実はShinが…」と話しはじめ、すぐに目を赤くして「どうしてShinがこんな病気になったんでしょう…先生…」と声を詰まらせて話していました。その時、声を殺して泣きながら話している母の横にいる私に、娘の担任だった真理子先生がスッと来て「気付かせてくれるためよ!」と言ったのです。まるで耳打ちするかのように。
思えば、真理子先生はとっても不思議な先生でした。年齢はお若いのにとても存在感があるというか、何より人見知りの娘のHANAが転校一日目で「大好き!」になってしまった先生だったのです。

私はその後、真理子先生の「気付かせてくれるためよ!」という言葉がずっと引っかかっていました。一体、先生はどういう意味で言ったのだろうか?その時の二人の先生の表情は両極端で、博子先生は悲愴な顔で母へ頷きながら母の肩を抱き、一方、真理子先生は私を見て力強く微笑んだのです。まるで「大丈夫!」と言わんばかりに。
Shinが発病して1年4ヶ月。いろんな事がありました。入院中の10ヶ月間もの間、子供を遠方の嫁ぎ先へ置き、髪振り乱し、形振り構わず情報を集めながら実家と病院との往復する私に母は「まだ、娘さんいるの?とか言われ、世間体が悪いわ」と言ったことが何度もありました。「じゃ、帰ってもいいの?」と私が意地悪く言うと、父は「Shinをこのままにして帰れるのか?」と言う。周囲の方々は私を横目で見て中傷する人も少なくは無かったでしょう。「がんばっているのね!」と哀れみと励ましを混用した言葉を掛けて下さったあと、「子供や旦那はどうなっても良いと思っているのかしら、あのお姉さんは…」とおっしゃっていた人もいたそうです。移植が成功しShinが退院した時「君の行動を見ていて、最初は異常だと思ったよ。皆で言ってたんだ、いくら姉だとは言え、望みが少ないのに子供も放り投げて弟の病院へ付きっ切りになるのは異常だと。でも今、そういうことを言ってしまって申し訳無かったと感じているよ。確かに君は異常だった、しかし、その異常さは正しかったんだ。」

きっと母は世間の目に時々耐え難くなってしまって言葉にしてしまっていたのでしょう。でも、今思うと私はこれこそ真理子先生の言う「気付き」だったのです。私は誰よりも自分の心の声に耳を傾けました。周囲の声に惑わされることなく自分を信じることが出来たのです。
Shinが東大病院の主治医の元で症例数も少ない試験的な移植に臨むという時も、「この先生なら、結果がどうなっても後悔しない」と信じきれたのです。人生の中で「信じきれる」という経験はあまり出来ないのではないかと思います。私の人生の中でも「信じたい!」と思うことはたくさんありましたが、「信じられる」と確信する出来事はほとんど無かったのが現実です。
穏やかな生活に戻った今、Shinが発病する前の私とは明らかに違います。他人の言葉にビクビクすることなく自分の心に素直になれていると思う瞬間が多くあります。人がなんと言おうが自分を信じることの大切さと自信に気付かされたのだと思います。
おそらく、私だけじゃない。Shinも同じだと思います。(確認したことはありませんが)両親も友人も、子供達も大きな「気付き」があったはずです。
Shinがなぜ白血病になったのか・・・?その答えはここにあったのですね。Shin、ありがとう!



20、真面目に…

移植認定施設(病院)中では移植症例数を公表していない施設もある。なぜなのだろうか?一般的には成績(生存率)が低いからではなかろうか?と想像するのではないだろうかと思う。

Shinの移植をする病院を決める時、私は移植症例数が多く、尚且つ移植成績の良い病院で治療を受けさせたいと願った。だから公表していない施設を信用できなかった。おそらくみんな同じように思うのではないかと思う。しかし移植成績にこだわる選択は時にして患者側が望む治療を受けられないことに繋がる危険性を孕んでいると今は感じるようになった。
患者は移植をするかしないか選択を迫られる。では患者が望めばどのような容態の患者でも移植をしてもらえるのだろうか?いやいや移植成績にこだわる施設ではおそらく成績を下げるであろうと思われる移植に踏み切る為には病院・医師側にも覚悟がいるだろうと思う。移植は患者を苦しめるだけになると思われる場合でも患者家族が望めば移植を施行してくれる病院もある。しかし患者や家族が懇願しても「出来ない!」と言う施設もあることを知っていただきたいと思う。「しないほうが賢明だ」という説得なら理解できるが、「出来ない」という返答はどうなんだろうか?
移植成績が優れている施設が必ずしも患者と家族が望む最善な治療をしてくれるとは一概には言えないと、いろんな方の話を聞いて思った。これから移植の症例数や成績(生存率)が一覧で公になる時代は近いと思うが、病院の選択は単にランキングだけを基準にはできないと患者と周囲は認識をしておかなければならないと思った。多くの方々の経験談を聞いて患者も家族も学ばなければならないことがたくさんあると改めて感じている。

私は治療上の選択は患者の意思と希望で決定させるべきだと考える。しかし、本人の意思が確認できなくなった場合、家族はどうしたらいいのだろうか?と考えさせられる出来事があった。最後まで闘わさせることが美徳のように言われる場合が往々にしてあるが果たしてそうなのだろうか?容態が悪くなった時に患者は家族に対して遠慮なく本心を言えるのだろうか?「家族は頑張って看病してくれるのだから、私(患者)も最後まで闘うよ!」と言わなければならない…などと思ってしまったりするのではないだろうか?患者も家族も誰もが偽らざる本心を伝え合う事が出来るのだろうか?私は自分に嘘つくことなく旅立てる(見送れる)のだろうか?

何が正しいのか解らない。相手の事を思うがゆえの嘘をつくことが悪いとも思わない。分からないけど後悔したくない。あ〜、私は未熟モンだなぁ…。Shinにも嘘をいっぱいついちゃったなぁ〜。


19、我が子のこと

Shinが発病した2002年は娘のHANAが小5、息子のYOUSUKEが中1だった。私はShinの発病のことを正直にそのまま話して聞かせた。これまでも「子供の耳に入れないように…」などと気を配ることなく、いろんな事に関して子供達の子供としての意見を聞いてきたので、彼らの叔父さんであるShinが白血病になってしまった事と母親である私がShinのそばに行きたい旨を率直に話した。幸い子供達は「行ってあげて!」と快く私を送り出してくれた。このことには今でも深く深く子供達に感謝している。
白血病に関してはネットで得た情報を解りやすく話して聞かせた。もちろん“死に至るかもしれない病”だと言うことも告げた。子供達は真剣な顔で私の話に耳を傾けてくれ、翌朝「お母さん、Shinちゃんに頑張って!って伝えてね。」と笑顔で登校してくれた。
私のいない間、舅と姑の家へ娘のHANAはお世話になったが、YOUSUKEは自宅で自立した生活を送っていた。朝早く起床して少し勉強(本当か?)その後、朝ごはんを支度し食べてから登校(冷凍のスパゲティーやピラフをレンジで温めて食べたのが多かったそう)帰宅後、自分のシャツと靴下を洗濯し干す(以外と几帳面な干し方)夕方はおばあちゃんの家へお夕食を食べに行き、帰宅後お風呂へ入り、就寝(この子は早寝早起き=まるで鶏)zzz…。すっかり自立した生活が身に付き、逞しく成長してくれた。
娘のHANAは私が発ったその日からパソコンで「白血病」を調べてくれたそうな。「骨髄移植をすると助かるらしい」とか「骨髄バンク」とか「ドナー」という言葉を最初に耳にしたのは娘のHANAからの電話だったと最近思い出した。
子供はその年齢なりの理解をして知識を得るものだと感心した。私は時折帰宅する度、Shinの状況を詳しく話して聞かせた。子供達は私にもできることは…?と真剣に考えたに違いない。ある日、HANAが骨髄バンク全国連絡協議会の掲示板にカキコミをしていたのを見つけた。(本名で書いていたので、すぐに娘だと分かり非常に驚いた)『白血病がお薬一錠で治るといいなぁ〜』そう一行書いてあったのを見たとき目頭が熱くなった。
本当にその通り。そういう時が早く来ればいいね。
今はドナー登録会へは私が行けなくても進んでお手伝いに(邪魔だったりするんだけど)行ってくれるし、ニュースやTVで病気関連の情報があると必ず知らせてくれる。
先日の出来事・・・。娘の同級生の親戚の子が白血病を発症したと聞いた時「急性?慢性?骨髄性?リンパ性?」と巻くし立てるように聞いたそうだ。(笑)HANAは各タイプの治癒率くらいは大体把握しているし、子供に多い病体や大人に多いタイプも知っている。「お母さんが痛いからドナーになるのが嫌だなんて言ったら、私たちはお母さんを許さなかったよ!」なんて生意気な事も言う我が息子である。
ドナー登録会会場でHANAとYOUSUKEの「骨髄バンクです、よろしくお願いしま〜す」という声を耳にするとき、勉強なんて出来なくてもいい、健康でいてさえくれれば…と私は思う。
しかし、帰宅すると「勉強したの?」と口にする私はやっぱりごく普通の母親だと感じるのです。


18、新春の慶びに向けて

新しい年を迎えました。2004年です。感無量です (*^_^*)
Shinが退院して4ヶ月過ぎました。毎日家族の心配をよそに忙しくしている様子に嬉しさと不安さと半分呆れながら見守っている姉のMilkyです。

昨年の年末、年賀状を書かなければ…と年賀葉書を用意したのですが、結局私は一枚も年賀状を書けませんでした。この場を借りてお詫び申し上げたい。
この一年を振り返り、どんなに多くの方々へお世話になったことでしょう…。今年は新年のご挨拶を欠かせないことは重々承知しているのですが、一年を振り返ると胸が熱くなり、涙が止まらなくなるのです。お恥ずかしい次第です。。。こうしてキーボードを打っていても涙がぽろぽろ落ちています。
お世話になった方々へ深く心から感謝しているのです。でも、でも、どうしても書けないんです。
どうか「この不義理者!」とお叱り下さい。決して時間が無く書けなかったわけではありません。年賀状代をケチったわけでもありません。自分の中の張り詰めたものが緩んでしまったのか、泣き虫になってしまったのか…自分でも不思議な感覚です。ごめんなさい。来年はキット書きます!
私はそんなに強いお姉さんではありませんでした…。ハッタリ(?)の「強がり」を使い果たしてしまったようです(^_^;)

こんな私の気持ちも知らず、Shinは念願のスキー場へ(スキーはしてないと思うけど)行っています。
・・・姉ノ心、弟知ラズ・・・
2004年の幕開けに寄せて


17、再発の恐怖

再発は怖い。
その恐怖感からどうしたら離れられるのか…。「再発なんて絶対しない!」と自分自身に言い聞かせるのか。そうしたら安心できるのか?それとも病気だったことを忘れる努力をすると忘れられるのか。患者本人も苦しいだろうが家族も同じように恐怖を抱えている。
一時、ひとりでいるときも「再発なんて絶対しないもんね〜」なんて発して自分の言葉に自分で頷いて、まるで一人芝居のような事を、時には車の中、時には台所でつぶやいていた私だった。
「弟さん、白血病なんだって?大変ねぇ〜」なんて人から言われようものなら「ええ、でも絶対に再発なんてしないんです!」と聞かれもしない事を必ず付け加えていた。
なぜにもこんなに私はShinの再発を恐れていることを否定するのか?本当は怖くて怖くて仕方ないのに、「そうじゃない!」と言ってしまうのか。この「怖さ」を自身で認めないことが更に恐怖感を増長していることに最近気が付いた。

Shinは再発するかもしれない。主治医からはALL+Ph1は高率で再発すると説明されている。でも、こればかりは防ぎようがない。本人や家族の努力で白血病の再発は防げないのだ。

私の親友のHiroの親戚の子は9歳の時にAML(急性骨髄性白血病)を発病し姉弟間のBMT(骨髄移植)をして9年間寛解を維持してきたが、昨年の秋に18歳でALL(急性リンパ性白血病)を再発してしまった。(こういう場合も再発と言うらしい) 再度BMTをして経過は良好だったが、今年の9月に天使になってしまった。最初の9歳の時のBMTが成功していたので、おそらく親御さんも「今度も大丈夫」と安心されていたのではないかと推測する(Hiroも「弟がドナーでオールマッチだから大丈夫」と言っていたし…)でも移植治療はそう単純ではないことを思い知らされてきた。

明日、交通事故にあう可能性もある。そのうちに大地震が来て日本沈没するかもしれないし、宇宙人が地球を攻撃しにくるかもしれない(ありえない?) 私がALLを発病するかもしれないし、いつ何が起こるかわからない。
だから、「Shinは再発するかもしれない」ということを受け止めることにした。

Shinは退院後すぐに大阪、新潟、長野、金沢と飛び回り、東北、九州、外国…と行動範囲を更に広げて走り回るだろう。
行きたいところへ行きなさい。そして、後悔しないように生きなさい。自分のために、そして多くの患者さんのために。

そして、もしも再発したら又辛い治療に励みなさい。私もそのときのために体力を温存しておくからね。それがShinとMilkyの姉弟の人生だからさっ。\(*⌒0⌒)bがんばっ♪ あ〜、私もがんばろうっと☆ミ


16、抗癌剤はどこから効くか

白血病は発病してすぐに抗がん剤が投与され、髪の毛が抜けるのは典型的な副作用と聞いていた。
私達の父親は頭髪が寂しいので(父の名誉(?)のためにあえて書くが、ハゲとはちょっと違う)Shinは「どーせ親父の子だから、いつかは無くなると思っていた髪だも〜ん、抜けたって気にならないよ!」と明るく言っていた。

抗がん剤開始から12日目、私が病院へ行くと「おねーちゃん、おねーちゃん!」と手を振って、いやに明るい…。
「いやぁ〜、ヤッパ、抗がん剤だねぇ〜」と妙に感心したような態度で、首を縦に大きく頷いて腕組みをしている。「いったい、どーしたの?」私には訳が分からずに頭には???マークが並ぶ。
「今日ね、清拭したのよ。ぬれたタオルで身体を拭いてたらさ〜〜」とニヤニヤ笑い始めた。「抗癌剤って名前の通り、コウガンから効き始めるみたいね…コウガンから!」と言ってゲラゲラ笑い出した。私は頭がヘンになっちゃったのかと思ったくらいゲラゲラ笑うから、「抗癌剤がどうしたの?」って聞き返すと「抗癌剤っててっきり髪の毛が抜けるんだって思ってたら、コウガンの周りの毛が抜けちゃったよ!ゴソッと。」と言って、お腹を抱えて笑いが止まらない様子。
私もShinのその様子がおかしくて、二人でゲラゲラ大きな声で笑っていたら、看護婦さんが心配して部屋を覗きに来た。「すみません、何でもないでーす!」と言って頭を下げて看護婦さんへ挨拶した。そして看護婦さんがいなくなってから、またまた笑い続けた。
「髪の毛はまだ抜けないけどサ、さすが、コウガン剤だよね!コ・ウ・ガ・ン剤!」と抗癌剤を連発するから、私もお腹が痛くなっちゃった。
ひとしきり笑った後、「でもね、ちょっと心配な事があるんだ・・・」とShinが言い出す。私は察して「すぐに生えてくるわよー」と言ったら「違うよ、違うの。抜け方がね…ちょっと心配。マダラに抜けたりしたらさぁ、カッコ悪いじゃん。一部残ったりしたらさぁ〜、抜けるなら、全部キレイに抜けてほしいよなぁ〜って思ってさ…」と言う。面白い発想だわ、全く!
そして髪の毛を手で梳かすと抜けた。いよいよ髪の毛が抜け始めてきた。
「さー、記念撮影だよ!」ハイ、チーズ(*^_^*) 「髪があるShinどえーーーす!」
そして、この二日後には、床屋さんに出張してもらって坊主になりました。「ユルブリンナーみたいでカッコイイ!」と母は言っていた。どこがカッコイイのか、娘の私には全くわからん…

看護婦さんから「白血病で入院して間もない患者さんの個室病室から、笑い声が聞こえたのは初めてだったので驚きましたよ〜」と言われてしまいました。うるさくして、ごめんなさ〜い。だって、コウガン剤が……(もういいって?)


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