2003/6
PBSCH 
末梢血幹細胞採取

2003年1月、Shinのドナーとして末梢血から造血幹細胞採取(PBSCH)をしました。


入院
入院後すぐにG−CSF(600マイクログラム)グランの注射が始まった。4日目から採取を始めるとのこと。グランの注射は筋肉注射で、Shinはいつも「痛い!」と言っていた。
「姉貴、俺が75とか打っても痛いんだよ…。それを600だって?へ〜っ、そりゃ痛いぞ、絶対、痛いぞ!」などとぬかしよる。
「じゃ、やめる!」と怒って病室から出る振りをすると、「いや、ゴメン、ゴメン!」と手を合わせる。まったく憎たらしいヤツだ!

入院初日、私の白血球は5,300だったが翌日は29,900、3日目には35,500になった。
Shinは「立派な白血病患者だぁ!」と憎まれ口を叩くが、顔が真剣で辛くなった。

天皇陛下と同じ階
身体は辛かったけれど、食事の時間は楽しみだった。
パントリーで他の患者さんのおばさま方との雑談に花が咲く。(女は時間を忘れて話をする生き物である。)
Shinの病友の辰ちゃんと話をするようになったのも、この日からだった。
辰ちゃんは私を白血病の患者だと思ったそうだ。私の長い髪(その頃はロングヘアーだった)を見て、「かわいそうに・・・、すぐ抜けてしまうのに・・・。」と思ったと言っていた。そしたら、自分とそっくりな男(Shinと辰ちゃんはそっくり!)が、訪ねて来て、姉弟だと知って、更に驚いたらしい。“姉弟揃って、二人とも白血病”なんだと思ったそうである。(カン違いも甚だしい)
丁度この頃、私と同じフロアー(14階)に天皇陛下が入院されていた。SPや警官が病院中大勢いたし、プレスの人は建物の周りに一杯いた。病室の向かいのマンション(ホテル?)のベランダには、いつもカメラが設置されていて、時折、カメラマンがいるのが見えるとShinは手を振っていた。(このお調子もん!)

顔なじみになったSPさんは元気にしているかしら?セキュリティーカードがなくては入れないドアをShinは時々、「カードわすれましたぁ〜、姉にに面会に来たんですがぁ〜」と開けてもらったりして、お世話になりました。「移植、成功するように祈ってます!」って言ってくれたSPさん、嬉しかった!

そんな中で、2日目から骨の痛みが出始めた。大腿骨はキシキシ痛み、腰はズキッと不意に来る痛みが怖く、食欲もだんだん減退し、充分な細胞数が取れるのかどうか心配で、鎮痛剤と眠剤を服用しないと眠れなくなってきた。

採取開始
4日目より採取が始まった。輸血部の先生は○橋先生。穏やかな感じのいい先生でいろんな話を聞かせてくれた。隣には研修医の後○先生が、ず〜っといてくださったが、あまり話はしなかった。多分退屈だったと思う・・・。

採取は輸血部の成分採血装置(AS-104)の横のベッドに寝て、1日12リットル(私の体内の血液が約4リットルなので3回転)まわして約200cc程の幹細胞が含まれる白血球を採取すること、身体の痺れや、異常を感じた時はすぐに伝えるようにと説明があった。

「患者さんの体格がよいので、通常より多くの細胞数が必要です。MAXの12リットル(体重掛×300)を回してアフェレーシス(体外循環)で採取しますので約5時間くらい掛かります。気分が悪くなったら言って下さいね。」と言われた。

今までに見たこともないくらい太く長い針を両肘の内側にブスッと刺され、採取するルートの手のひらにはスポンジのようなものを握らされ、握っては閉じ、握っては閉じ、(グーパー、グーパー)と血液の出が良くなるようにするように、と言われた。(まるでリハビリ・・・)
私はまるで機械の一部になったみたい…。繋がれて身動きできない…。
ビデオとか、CDとか聞けるって話だったから、密かに楽しみにしてきたんだけど、大きなTVはあるけれど、見れそうにない。5時間かぁ、長いなぁ〜。

大きな機械には目標の12リットルの数字が赤く表示され、時間と共に数字が減少していく。血液の出が悪いとピーッ、ピーッと音が鳴り、慌ててグーパー・グーパーしても鳴り止まない時は右と左のルートを交換する。
出してた方から入れて、入れてた方から出す。私は3回入れ替えた。

5分の1しか採取できず…(T_T)
身体が“もあ〜っ”てして来た。(わかるかな?この感じ)
手先がビリビリ痺れ出した。口の周りもジンジン痺れ出します。
定期的に「痺れを防ぐカルシウムです。」とラインの接続部分から注射器で注ぐ。

なぜ、カルシウム剤を輸注するのか?
血液は外に出るとカルシウムがなくなり凝固する。クエン酸はカルシウムの働きを抑えることで凝固を防ぐのだ。そのため、体の中にクエン酸が入ってくると低カルシウムの状態となり、痺れがでる。それをおさえるためにカルシウムを注射するのだそう。

「このくらいの痺れは我慢、我慢」と言い聞かせ、枕もと上の機械の数字を確認するが、本当に少しずつしか数字は減らない。数字を見るたびに「ふぅ〜」とため息。

採取される白血球もホンのビビたる量しか増えて行かない。気持ちは焦る。でも、自分の身の事よりも「これで弟を助けられる!」という気持ちのほうが数段勝っていることは言うまでもなく。5時間後、目標の12リットルクリア。ホッとした。

ところが、身体は思いのほか疲労が激しくて立ちあがることも出来ず、研修医の先生が車椅子に乗せて病室まで運んでくれた。恥ずかしかったけれど、仕方ない・・・。これじゃ、病人よりひどい。弟はピンピンしてるってのに。

夕方の主治医の説明は「目標の細胞数500に対して、1日目は100(5分の1)しか採取できなかった」と。 私は落胆…。弟もしょんぼり…。

みんな頑張ってるんだよね
2日目は更に骨の痛みが増し、痛がる私の身体を母はさすりながら泣いていた。
「変わってやれるものなら・・・」って何度も言うから、「年齢的に無理!」と冗談を言い雰囲気を明るくするが、両親と弟の言い表せない複雑な思いが私に伝わった。

研修医の先生と一緒に輸血部へ・・・。今日は痺れが早く出始める。
「昨日よりしんどい・・・」そう思った。
採取途中で息苦しくなってきた。でも、機械の数字を見上げるとまだまだだ。昨日は5分の1しか取れてない。ここで私が諦めたら、弟の移植が流れてしまう。意識が朦朧としていく中で自分を励ました。

幼い頃、私が病気で学校を休み寝ていた時、弟がお小遣いで少女漫画雑誌を買ってきてくれたこと。(私はベッドの中で少女漫画のヒロインになった)や、料理好きな弟が高校生の頃、私にお弁当を作ってくれた(友人は「弟さんが作ったの?」って驚いたけど、オカズが充実してて結構自慢だった)こと、そして毎年夏に行く海岸での弟のはしゃいだようす・・・。
いろんな思い出が脳裏を駆け巡った。

「ここで私が頑張らなければ!」
 それと同時に我が子の言葉を思い出した。
「おかあさんをShinちゃんのために貸してあげるねっ!」
発病した頃に私の母へ電話で言った10歳の娘の言葉。涙が出た・・・。

私だけが頑張ってるんじゃない!子供達も、両親も。そして誰より弟本人も。
みんな頑張ってるんだ!そう思った。

命を生み出すために
その時、腰の骨にズキッと激痛が走った。
「あっ!この痛み…。どこかで、この痛みを経験した時がある…。」私は思い出した。出産を控えた時のあの痛みだ。

臨月、出産が秒読みになってくる時の胎児が下がってくるときの腰の痛みに似ている。陣痛の時の痛みに。

「形は違えど私は“もう一つの命”を生み出すために、この痛みを経験している。」そう思うと、不思議と気持ちは穏やかになった。命を生み出すのに痛みを伴うのは当たり前だと。

私は目を瞑り時間が経つのをじっと待った。

リタイア
それから、どのくらい時間が経過したのか、益々痺れは増して行く。

カルシウムを入れてもらってもその瞬間だけ身体が温かくなり、すぐに痺れが激しくなって手と足が硬直し始めた。数字がぼやけて見えなくなってきまた。手と足が動かなくなった私の頭の中でどこが限界なのか、必死に考えた。「もう少し、もう少し」と言い聞かせながら。

口の周りの痺れが増し、もう言葉が話せなくなると思った時、『先生、限界です・・・』私は側にいてくれた○橋先生へ声に出して言ってしまった。

「止めましょう!中止!」と先生は大きな声で言ったその声はとても遠くから聞こえたような気がした。

急に過呼吸症候群のように息が出来なくなり、ビニールを口に当てられ、少しの間、記憶がない。
精神的圧迫が過呼吸症を招いたのではないか、と言われた。

「もう、終わるところでしたから、気にしないで。今日は充分ですよ!」との先生の声が私を安心させたが私は罪悪感で一杯だった。
「ゴメン・・・Shin。」

2日目も車椅子で病室へ戻った私は、暫らくぐったりしていた。ところが、採取された細胞数は240と報告を受け、Shinと「やったぁ!あと160だ。明日に掛けよう!」と大喜びした。

ところが喜んだのもつかの間、「明日、残りの細胞数が採取できなくとも、明後日まで採取を伸ばすことはしません。」と主治医の○田先生から話しがあり、G−CSFグランを倍の1,200に増やして注射をした。
グラン1,200・・・? 凄い量。Shinと私は顔を見合わせた。
不安がなかった訳じゃないけれど、「大丈夫さ!」と笑った。
もしも・・・、もしも・・・、このグランの副作用で何かが起こったら、その時は交通事故にでも遭ったと思おう。交通事故が怖いからと言って車に乗らない人はいないでしょ?
飛行機が落ちるかも知れないと思っても、みんな海外旅行へ行くじゃない!
みんな、生きるって事は何かしらのリスクを抱えてるんだもん。

採取最終日(3日目)
翌日3日目、私の白血球は68,400になった。通常の十倍くらいの数値。

しかし今日は身体がそう辛くはない。○橋先生と気心が知れてきたせいか、薬が身体に馴染んできたのか、昨日の細胞数が充分に採取できたからか、気持ちがラクになっている。
痺れもそんなにひどくない。
5時間は○橋先生との雑談(最新白血病治療の話&奥様やお子様の話&先生の経歴などなど・・・)で過ぎ、私の採取は終わった。

目標達成
ってな感じで、私の採取は終わりました。
「本日の採取細胞数260」と報告があり、この3日間の合計は600もの幹細胞が採取できました。
結果、目標500に対して600。充分な幹細胞が採取されるように!との願いは叶いました。

弟は「姉の底力が出た!」と喜びを表していましたが、その日の夜に照れくさそうな書き出しでメールのお礼が届きました。

「…どうもありがとう! そしておつかれさま。」
心にジーンと来た。
「今度はShinが頑張る番だよ!」

退院
採取を終えた翌日、私は元気に退院しました。
退院時、白血球数はやや高めで、痺れが少し残っていましたが、現在は何も問題はありませんよ〜。とても元気です。(*^_^*)


【追記】
※私の採取経験は身体的にとても厳しいものでした。それはShinとの体重差が大きかったためと、移植法が「Campath-1H」という臨床試験だったため、グラン(G-CSF)を通常の2倍ほど投与したからです。
通常の移植の場合、末梢血からの採取は思ったよりラクだったと聞く事が多いので、通常の移植方法で血縁ドナーになる方には参考にならないかも知れません。



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